「オッペンハイマー」は画面と音の圧がすごいので3時間飽きさせず、見応えも十分だけど、メッセージは薄め。

オッペンハイマー

今回は新作の「オッペンハイマー」を日比谷のTOHOシネマズ日比谷9で観てきました。3時間の長さに腰が引けていたのですが、意外とお客さんが入っていて、ちょっとびっくり。

アメリカ生まれのユダヤ人、ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィ)はイギリスに渡って量子力学を学び、アメリカに戻ってバークレー大学でローレンス(ジョシュ・ハートネット)と共に研究を進め、原子爆弾開発のマンハッタン計画に招かれます。当時、彼は共産党との関わりが深かったのですが、推進者のグローヴス(マット・デイモン)はそれを承知で彼を計画のトップに据え、オッペンハイマーの進言でニューメキシコ州のロスアラモスに研究のための町を作り、研究者をそこに集めて、原爆開発を進めます。当初は対ドイツ兵器として開発された原爆ですが、開発中にドイツが降伏、標的は戦争終結の気配を見せない倭国へと変わります。ポツダム宣言前を目標に実験を行い、その成功を見て、原爆は倭国の広島、長崎に投下され、戦争を終わらせた立役者として、オッペンハイマーは時の人となります。さらに、原爆を上回る威力を持つ水爆の開発に携わることになるのですが、原爆開発に対する後悔の念に囚われるようになったオッペンハイマーは反核の発言をするようになり、赤狩りの時代には、彼は共産主義者のレッテルを貼られて、機密事項へのアクセスを禁じられ、表舞台から姿を消すことになってしまうのでした。

原爆の父と呼ばれるロバート・オッペンハイマーを描いた、カイ・バードとマーティン・J・シャーウィンによるノンフィクション「オッペンハイマー」を元に、「インターステラー」「ダンケルク」のクリストファー・ノーランが脚本を書き、メガホンを取りました。フィルム撮影、それも65ミリフィルムにこだわって作った映像だそうで、シネスコサイズの上映だと少しだけ両端が黒くなります。IMAXも意識したフィルム撮影だったようですが、そこまでのスペックが必要な題材かというと微妙な感じでした。映画は、オッペンハイマーが共産主義者かどうかを審査される非公開の聴聞会と、原子力委員会の重鎮であったストローズ(ロバート・ダウニーJr)の長官承認の委員会の様子を並行して描き、その合間にオッペンハイマーの半生を回想風に描き込んでいきます。ストローズがどういう立場の人間かは映画の中であまり説明がなくて、後でプログラムを読んで後付け知識を補ったのですが、この男がオッペンハイマーと陰に陽に敵対関係にあったらしいんですって。ただ、この対立構図が明確になってくるのは、映画の後半になってからでして、その構図が見えてくると、急にドラマが慌ただしく展開するので、私にはドラマの軸が捕まえにくい映画になってしまいました。

お話は実録もので、なかなか全貌がつかみにくい展開なんですが、3時間を一気に見せる映画でした。ノーランの演出はクローズアップを多用したテンション高いのをずっと継続するというもので、良く言えば実録ものでジェットコースター映画を作ったということもできますが、ある意味、緩急のない演出で3時間突っ走ったということも言えます。様々なエピソードを盛り込んでいて、時系列が前後するので、ボーっとしてると前後を見失うところもありました。(結婚前と結婚後のどっちだっけってところで、私は混乱しちゃいました。)

原爆を扱った映画ですと、倭国ですと「ひろしま」「原爆の子」「ゴジラ」がありますが、原爆を落とした側の視点の映画ってあまりありませんでした。そういう意味では、この視点からの映画は新鮮でした。ただ、この映画は、オッペンハイマーという科学者の半生を描いていて、原爆はその人の人生に大きな影を落とすファクターでしかないので、この映画は原爆映画でもありませんし、反核でも反戦でもありません。でも、結構原爆の扱いが大きくて、その割にオッペンハイマーの人となりがなかなか見えてこなかったように思います。(見えないのは私が鈍感なのかもしれませんが) 映画は、オッペンハイマーという人間と、科学と政治の関係、核兵器という世界の構造を変える恐るべき存在の3本の軸で進んでいきますが、そのどれもがどこか浅いように思えてしまいました。普通の作りの映画であれば、こういう感想は持たなかったのですが、3時間の尺と、映像と音響の圧がすごいので、そのパワーの割には、訴えるものが少なくない?って感じてしまって。

作りとして、オッペンハイマーがどういう人間なのかというのは、冒頭、大学で教授に毒リンゴを仕掛けるシーンがインパクトあったのですが、その後はどちらかというと時流に流されていくという感じで、共産主義に染まるのも当時の流行に乗ったようにしか見えず、自分の学問が大量破壊兵器の開発に向けられることにも、なんとなく受け入れて、彼自身のモチベーションがあまり見えてきません。戦後、核の脅威を説くようになるのも、原爆の被害を知ったこともありますが、共産党のかつての仲間に迎合したのが大きいように見えます。量子力学とか原子物理学とかすごい人なんでしょうけど、人となりはそれほどでもない。でも、そんなそれほどでもない人が世界の力関係を変えるような兵器を開発してしまったということを、歴史としてどう捉えるべきかというところがこの映画の見所なのかもしれません。

と言いつつ、この映画を観ていて伝わってくるのは、原爆が世界にネガティブな新しい世界を開いたということ。原爆開発に関与しなかったアインシュタインを対照的に登場させて、オッペンハイマーのやったことを際立たせようとしているのが伝わってきました。ただ、その新しい世界がどういうものかというのが今一つ伝わって来ないのが不思議でした。原爆の直接的な恐ろしさは描写されませんし、原爆のもたらす未来にも具体的な描写はなく、「恐怖の均衡」くらいの漠然としたイメージのみが提示されます。また、政治と科学の関係についても、人間の低次元のエゴが世界を方向を決めかねないという警告レベルのメッセージにとどまっています。ですから、原爆の怖さを知っている人、政治と科学のヤバい関係を知っている人には「ま、そうだね」ってことになりますし、そういう知識のない人には「え、そうなの? 知らんけど。」という感想になりそう。知識のない人がそういうことに興味を持つきっかけになれば、それなりの意義はあると思いますけど、もっと親切に伝えてよとも思ってしまいました。

一方、主人公の周囲の人間を粒立たせて印象に残る演出をしているのは、ドラマに厚みと見応えを与えています。そのおかげで一本の映画を観たなあという満腹感がありましたもの。敵役のロバート・ダウニーJrを始め、マット・デイモン、エミリー・ブラント、ケイシー・アフレック、出番少ない割に印象に残ったラミ・マレックといった面々がキャラが立つ一方で、オッペンハイマーの何だかはっきりしないもやもやしたキャラが好対照となりました。そんな中で、ロスアラモス研究所で責任者に任命されたオッペンハイマーが軍服を着てるのを、同僚に「お前、科学者なんだからやめろよ」と注意されるシーンが印象的でした。流れに流されやすい主人公が調子に乗ったとは言え、自我を前面に出したのは、ここぐらいだったからです。ノーランの演出は登場人物のキャラ采配のうまさが光りました。女性関係がだらしないオッペンハイマーなんですが、浮気男というよりは、自信なさそうな来るもの拒まぬ男に見えてしまったのが面白かったです。恋人や妻に重いキャラの女性を配して、そんな女性にまんまとはまってしまってるように見えるのですよ。

どちらかというと野心家というよりは、周りに流されやすい主人公が世界を変える大量破壊兵器を作ってしまったのは歴史の皮肉なのか、怖さなのか。でも、戦後、彼が反核の立場を取ったというのも、ある意味不思議な気もします。少なくとも終戦当時は、地球の裏側の20万人の市民を殺した結果、多くの米兵やその家族を救ったという認識だったわけですから、勝戦国の立場で彼がヒーローとなることはおかしなことではないように思えます。彼の周囲で反核を唱えた人間は、共産党のソ連サイドの人間であって、彼に情報を渡せというような連中なのですから、そこに広島や長崎の犠牲者への想いはなかったであろうと見えるのですよ。それでも、オッペンハイマーは焼け爛れる人間の幻覚を見て、後悔の念に囚われたのですから、他のアメリカ人と違う視点と感性を持っていたのではないかしら。


この先は結末に触れますのでご注意ください。



オッペンハイマーが共産主義者であるという情報を横流ししたのは、ストローズでした。彼は個人的にオッペンハイマーが嫌いで彼を追い落とそうと画策したのですが、最後にはそのことも公になってしまいます。晩年のオッペンハイマーは過去の業績を認められるようにはなるものの、反核の立場を取り続けることになるのでした。

戦争に勝って、一躍時の人になったオッペンハイマーは、ホワイトハウスにも招かれるのですが、そこでも自分の作った爆弾で多くの人を傷つけたことを後悔していると言って、大統領を怒らせてしまいます。「彼らが恨むのは、爆弾を作った君じゃない。落としたワシを恨むんだ。」と明快に言い切るトルーマン大統領(1シーン出演のゲイリー・オールドマン怪演)の言葉の重みが印象的でした。そうなんだけどと思いつつ、そういうものを現実化した人なんだから責任ないとも言えないよなあ。でも、多くの人間が参加していたレースで、たまたま彼が先頭でゴールしただけであって、彼が途中でリタイアしても、他の誰かが原爆、そして水爆を完成させていたこともきちんとこの映画では描かれていますから、大統領の言った言葉の重さはもっと認識されるべきものだと思いましたです。

盛りだくさんな内容の3時間なので、観客を退屈させないように、ずっとテンション高い演出をしていたのかもしれません。こういう題材を娯楽映画の態で作って多くの人の目に触れさせようという戦略であれば、それは見事に当たっていると思いますが、映像や音の圧の割には、メッセージよりも匂わせが多いので、物足りなさも感じてしまいましたから、采配が難しいところです。反戦や反核といったイデオロギーを前面に出した場合、この映画の作りだと、プロパガンダ映画になってしまうので、それを避けたのだともいえそうです。その分、こういうお話だけど、3時間一気に突っ走るライド感を作り込んだ見識は賛否が分かれそう。
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「枯れ葉」は時代が不明で貧乏な中年男女の恋愛ドラマが新鮮でした。

枯れ葉

今回は横浜のシネマジャックで新作の「枯れ葉」を観てきました。クラウドファンディングにより、来年度以降も存続できるようになったというのは嬉しい限りです。

フィンランドのヘルシンキ。スーパーで働くアンサ(アルマ・ボウスティ)は消費期限切れの商品を持ち帰っていたことがばれてクビになってしまいます。一方、金属工場で働くホラッパ(エッシ・ヴァタネン)はアル中気味で仕事中も隠れて酒を飲んでいます。パブの厨房で働くことになったアンサは、以前カラオケパブで同席したホラッパと再会します。ちょうどパブのオーナーが逮捕された直後だったので、お金のないアンサにホラッパは食事をおごって映画に誘います。映画を観た別れ際にアンサはホラッパに電話番号をメモして渡すのですが、彼はメモをなくして電話できずにそれっきり。ホラッパはその後、映画館前で彼女に会わないかと通うようになり、ある日、映画館の前で二人は再会し、アンサはホラッパを食事に招くのですが、隠れて酒を飲むホラッパを見て、アンサは彼を追い出してしまいます。アンサは工場で働くようになり、迷い犬を引き取り、飼うようになります。一方ホラッパは酒のせいで仕事をクビになります。アンサを忘れられないホラッパは酒をやめ、もう一度会いたいと彼女に電話するのですが,,,,,。

「パラダイスの夕暮れ」「浮き雲」などの作品で、世界的に有名なフィンランドのアキ・カウリスマキ監督が自ら脚本を書き、メガホンを取りました。2017年の「希望のかなた」で監督引退宣言をしたのですが、昨年作った新作がこの「枯れ葉」です。アンサの家にはテレビもなくて、古風なラジオしかないのですが、そこから流れてくるニュースはロシアのウクライナ侵攻なのがすごい不思議な時代感。でも、一度引退を宣言したカウリマスキが映画作りを再開したのはこういう時代だからこそだったんですって。一応携帯電話は登場するのですが、これがスマホじゃなくてガラケー。電話番号を紙にメモして渡すとか、いつの時代やねんということになるのですが、その時代不詳の世界観の中で、アンサとホラッパという中年男女のシンプルな恋愛模様が際立つ作りになっています。

アンサもホラッパもいわゆる低所得者層の労働者です。そして、二人とも40くらいでしょうか、もう若いとは言えない年齢です。そんな二人がカラオケパブで偶然に席が隣になり、お互いに良い印象を持ったところから物語は始まります。二人はその場ではそれきりで終わるのですが、アンサがスーパーをクビになり、次に働いたパブも営業停止になった時に再会、ホラッパが食事をおごったことで付き合いが始まります。映画を観た後、彼女が電話番号を渡すのですが、それを彼がなくしてしまい、それっきりになるのですが、ホラッパが映画館を張り込んで再会に成功します。でも、彼女がホラッパを家に招いた時、彼が隠れて酒を飲んでいたことに腹を立て、二人の関係は終わってしまいます。こんなことで破局かよとも思うのですが、お国柄なのかアンサのキャラなのか、何となく納得させられます。その後、ホラッパが本気で酒を絶つという展開になります。なんてシンプルな恋愛ストーリーなんだと思う一方で、主演の二人のリアルな中年感が寓話のようなイメージを運んできます。

主人公の二人は華がないおっさんとおばはんなんですが、何とか日々を暮らしている感じが安定感と言うのか、ある種の落ち着きを感じさせます。でも、日々の暮らしに追われる二人が恋愛感情を持ちあうってのは、現実感がなくてどこかふわっとしています。そういえば、昔のトレンディドラマって、生活感がなくて登場人物が恋愛中心に生きてるのがすごく不思議だったなあってのを思い出しました。この映画も貧乏な暮らしの二人なのに、結構恋愛感情のプライオリティが高いというか恋愛中心感があるんですよ。ん?自分が恋愛経験が乏しいからなのかもしれませんが、そんなに何度も会ったわけではないのに、密に連絡とりあっているわけでもないのに、お互いが相思相愛に盛り上がるなんて、そんなのあるのかしらというオヤジの感想です。

いい年した貧しい男女の恋物語が淡々と進行し、そのバックでラジオからロシアのウクライナ侵攻のニュースがリアルに流れるという不思議な時間空間が新鮮で楽しくて、ちょっと面倒くさそうなヒロインのラストの満面の笑顔がうれしい結末となり、いい気分で映画館を後にすることができました。

2023年のベストテン作ってみました

2023年を終えるにあたり、今年のベストテンを作りました。映画館で観た本数は多くないのですが、それでもなかなか印象に残る作品が多くて、よい1年だったと言えるのではないかしら。

第1位「リアリティ」
 国家機密情報を漏洩した罪で逮捕された女性に対するFBIの尋問を尋問記録に基づいて再現したドラマ。彼女の家の前で待っていた二人のFBIの男が、辛抱強く彼女の言葉を引き出す過程を丁寧に描きます。その中から、政治に対する不信、義憤、そしてメディアが事実を歪めていく過程が見えてきます。演技陣の静かな熱演もあってドラマとして引き込まれるものがあり、かつ社会的なメッセージも水面下で一本筋が通っているのが見事でした。言葉にして語らない政治的なメッセージを82分の会話劇の中に織り込むってのはすごいなあって感心。よくできてるし、観終わっての満足感が十分でこれが2023年のベストワンです。

第2位「いつかの君にもわかること」
 4歳の息子と暮らす若い父親が病気で余命宣告され、自分の死後の息子の里親を探すという物語。映画は父子二人のつつましい暮らしと様々な里親候補の面談で成り立っています。その中で里親家庭にも色々な事情がありそうで、父親も思うところありそうだけど、そこをあえて語らず、ラスト、どの里親に預けるのかで観る方をハラハラさせ、ラストカットで万感の想いが伝わってくる作りのうまさ。最後の最後で泣かされてしまいました。

第3位「TAR/ター」
今年のハリウッド映画は、2時間半越えの映画が多くて、その長さ何とかならないのかと思うこと多かったのですが、この映画は2時間40分もあるのに、ずっと引き込まれてしまった珍しい作品。世界的に有名な指揮者であるヒロインが徐々に壊れていくプロセスをじっくりと見せて、腑に落ちない部分山盛りなのに、目が離せない、観終わって満腹感があるという奇跡の映画でした。ミステリーで観客を引っ張っていく中に芸術とかエリートのうさん臭さや、ジェンダーの危うさ脆さも盛り込んでいて、とにかく面白い映画として、私には刺さりました。

第4位「生きる 大川小学校津波裁判を闘った人たち」
 東倭国大震災で、大川小学校の生徒、教師が津波に呑まれて亡くなったことに、一部の生徒の父兄が裁判を起こしたことを扱ったドキュメンタリー。とにかく、前代未聞の災害なのだから仕方ないという流れに「納得できない」と立ち上がる父兄の気持ちが伝わってくるのが見事で、それがこれからの父兄の人生を「生きる」ことにつながるというメッセージには胸を打つものがありました。また、相手の非を認めさせるには賠償金請求しか法的手段がないというのも初めて知りました。訴訟を起こした父兄を金目当てと揶揄することがお角違いであることは、もって世間にアピールして欲しいと思う映画でした。

第5位「デスパレート・ラン」
 サスペンス映画の小品なんですが、よくできていたのがこれ。ジョギング中の母親に息子の高校で立てこもり事件が発生したという一報が入り、息子が心配でスマホで問い合わせや情報収集を始めるというお話です。何だか心配しすぎで迷惑なモンスターペアレントかと思っているうちに、どんどんヒロインに感情移入していく作りがお見事。観客の感情をうまくコントロールしてサスペンスを盛り上げる演出がうまい。ベテラン娯楽職人フィリップ・ノイスの職人芸を堪能できる娯楽映画の佳品。

第6位「シック・オブ・マイセルフ」
 承認欲求が強いヒロインが、みんなの同情を誘うために、わざと問題ある薬を飲んで、顔が歪んじゃったというお話。一歩間違えるとサイコホラーになってしまう設定ですが、ヒロインをドジっ娘キャラに設定することで、コミカルにまとめたところがお見事で、娯楽映画としてうまく着地するのに成功しています。いわゆるかまってちゃんな女の子が見た目も健康もボロボロになるというのは、洒落にならない話なのに、何だか笑えてちょっとだけかわいそうな後味にまとめたセンスが好きです。

第7位「私がやりました」
 俳優志望の女の子が殺人の現場に居たことから、自分を殺人者だと偽ることで、名前を売るというブラックコメディなんですが、映画業界とかへの風刺とか批判とかを一切カットして、純粋なバカコメディに仕上げていることで、単純に笑えて楽しい映画になっていることでこの順位になりました。フランス映画らしいオシャレ感があって、でも中身はベタなお笑いというのが楽しいのでベストテン入りです。

第8位「擬音」
 2023年は、「エンドロールのつづきに」「カンフースタントマン」「ヒッチコックの映画術」といった映画についての映画を観る機会があったのですが、その中で印象に残ったのは、効果音を作る技師のドキュメンタリーでした。台湾映画界のフォーリー・アーティストと呼ばれる音響技師の半生を追うと、映画界の栄枯盛衰が見えてくるのが見応えがあり、さらに彼の一子相伝の技術の後継者がいないという切ない結末が、映画というものの儚さを感じさせてくれました。また、当時の映画の音や声の作り方を知ることができるという歴史的にも貴重な映画ではないかと思った次第です。

第9位「メグレと若い女の死」
 メグレ警部ってミステリーファンには結構有名。殺人事件の捜査をする警部を丁寧に描くことで、1950年代でも都会に憧れる女の子がたくさん夢を抱えてパリにやってきていたということが伝わってきて、今も昔もあんまり変わらないなあって考えさせる映画でした。でもそれだけじゃなくて、ちゃんとミステリーとして面白くよくできていましたし、脇役まできっちりとキャラが立つ演出もあって1本の映画としてよくできていたと思います。

第10位「すべてうまくいきますように」
 尊厳死を望む父親に振り回される娘のお話で、家族ってのは色々と面倒くさいねえというのをコミカルに見せた一編。倭国とフランスでは文化の違いはあるとは思うけど、親子関係の面倒くさいのは似たところ多くて共感できる映画に仕上がっています。まあ、フランスでも裕福な家のお話でもあるので、庶民感覚とは相容れない部分もあるのですが、人間死ぬとなったら好きなように死にたいよなあってところは、ボケる前に考えておく必要があると考えさせる映画でした。

次点で、ひたすらバカで下品だけど楽しかった「ネバー・ゴーイン・バック」が入ります。まず娯楽映画としてちゃんとしていて、その上にもう一つ何か乗っかっている映画が点数高かったです。

ハリウッド大作が3時間近いボリュームになって、その長さに腰が引けてしまうことが多かったです。「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」はお話盛り込みすぎ感があり、「ミッションインポッシブル/デッド・レコニング PART ONE」はストーリーはシンプルでも見せ場引っ張り過ぎ感があり、どっちも面白いんだけど、私のような年寄りには味付けが濃すぎました。また、オスカーを取った「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」も正直「何じゃこりゃ」という印象しか残らず、自分が世間からずれてきてるんだなあってのを実感してしまいました。一方でシリアスな題材を描いた「The Son/息子」「月」「対峙」といった作品はそれぞれ大変見応えのある映画でしたが、映画としての作りに今イチ感を感じてしまい、ベストテンからは漏れてしまいました。若い頃ならベストテン上位に入れてたのかなって思う作品でした。

また、例年のピンポイントベスト5も絞りだしてみました。

第1位 リバイバル公開がうれしかったです
最近は「午前十時の映画祭」といった企画枠で昔の映画を上映していたりもするのですが、それとはまた別枠での昔の映画のリバイバル公開がされるようになってきて、2023年は「アメリ」「未来惑星ザルドス」「こわれゆく女」をスクリーンで観ることができたのは大変嬉しかったです。私の若い頃は、色々な映画がたくさんリバイバル公開されていたので、こういうのはもっと流行ってほしいところです。

第2位 「モリコーネ」のドキュメンタリーとしての限界
この映画は、著名な映画音楽作曲家エンニオ・モリコーネのドキュメンタリーなんですが、この人の業績が凄すぎて、2時間半もかけた映画でも、その人間性にまで肉迫できなかったところが大変面白いと思いました。私は、モリコーネの作曲した音楽が大好きですし、CDも何枚も持っているのですが、その業績の厚みを才人監督のトルナトーレでも切り崩せないまま、単なる偉人伝で2時間半終わるってのはなかなかすごいと思います。当人の言動からしても結構気難しい人みたいなんだけど、そんなことより、彼の音楽に対する世界からの賛辞がすさまじくて、当の本人が霞んでしまうってところが、モリコーネのモリコーネたる所以なのでしょう。

第3位「SHE SAID/シー・セッド その名を暴け」で描かれる弱者を守る視点の重要性
 映画はベストテンからはこぼれてしまいましたが、大プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインのセクハラから始まる「#me too」運動の発端を描いた作品として見応えのあるものでした。特に重要と思うのは、「弱者を守ろう」という視点が描かれているだけでなく、「正義を行う時、弱者は必ずしも守られない」こともきちんと描かれていることでした。LGBTの流れに文句をつけるつもりはないですが、「声を上げられない弱者をどう守るのか」が抜けてる気がするジェンダーレスに賛同できない自分には、この映画の視点はすごく重要に思えました。(まあ「フェミニズム」と同様、意味に多様性がありそうな「ジェンダーレス」という言葉で一括りにするのもよくないかもしれませんけど。)

第4位「リアリティ」のシドニー・スウィーニー
 2023年の女優陣は、「TAR/ター」のケイト・ウィンスレットを筆頭に、「イニシェリン島の精霊」のケリー・コンドン、「The Son/息子」のヴァネッサ・カービー、「コンペティション」のペネロペ・クルス、「メグレと若い女の死」のジャド・ラベスト、「午前4時にパリの夜は明ける」のノエ・アビタといった皆さんが印象的でしたが、そんな中で、普通の女性をリアルに演じ切った「リアリティ」のシドニー・スウィーニーがベストでした。あんな長回しのアップに耐えて、かつ演技じゃない存在感を出してたって凄くね?って観終わった後気づきました。

第5位「ゴジラー1.0」がアメリカもヒット&高評価
 鑑賞時に、私としては物足りないなあって思ってしまったのですが、これがアメリカでヒットしていて評価も高いということでびっくり。ラストで、典子が生きてましたというのは倭国映画らしくないなあと思っていたのですが、世界的な危機的状況から主人公の勇敢な行動があって家族の再構築で終わるって、「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」と同じ構成じゃねと気づいて、なるほどよく考えて作られているんだなあって、ちょっと感心。「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」も何で次元またがる戦争が、母子が抱き合って決着するねん、と私にはすごく不満だったのですが、今の映画はこういうところへ落とし込む方が受けがいいのかなあってちょっとした発見でした。でも、私には「ゴジラー1.0」も「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」も今イチなんだよなあ。感覚が古いのかもしれないけど、好みだからしょうがないよねえ。

そんなわけで2024年もよろしくお願いいたします。

「それは、きっと愛じゃない」はラブコメとしては微妙な後味、会話のコメディとしてはかなり笑えて面白い。

それはきっと愛じゃない

今回は新作の「それは、きっと愛じゃない」を有楽町のヒューマントラストシネマ有楽町2で観てきました。ここはビスタからシネスコに変わる時、縦がちょっとだけ縮まって横が広がる作り。きちんとスクリーンサイズを変えるところが偉い。

ロンドンでドキュメンタリー映画を作っているゾーイ(リリー・ジェームズ)は、付き合う男はクズばかりのパターンを乱発、母親(エマ・トンプソン)はそんな娘が気がかりでなりません。そんなゾーイが、実家の隣の次男が結婚したというので結婚式に招かれます。隣の一家はパキスタンからの移民で、長男のカズ(シャザド・ラディフ)はゾーイとは幼馴染の仲良しさん。久々の再会を喜んだあと、カズから結婚するという話を聞きます。まだ相手は決まってないけど、お見合いで結婚することにしたというのを聞いたゾーイはこれはドキュメンタリーの種になると、お見合い企画をプロデューサーに進言したら、それ面白いとGOサイン。嫌がるカズを説き伏せて、お見合いから結婚までをカメラで追いかけることになります。結婚コンサルタントに親と一緒に行って希望のタイプを述べ、同じようなムスリムお見合いパーティに参加しますがなかなか思うような女性と出会えません。知り合いの紹介でパキスタンにいる女性を紹介されネットお見合いしたら、その女性といい感じになって結婚することになったと聞いてゾーイびっくり。一方、ゾーイはいい男と巡り合うことがなく、心配した母親の紹介で獣医を紹介され、相手もゾーイに好意を持っているみたい。そして、カズの結婚式のためにパキスタンへ向かうゾーイ。あちらの結婚の儀式やカズや花嫁のインタビューをカメラに収めるゾーイですが、愛は後回しの結婚にはやっぱり納得できないのでした。

パキスタン人を夫に持つジェミマ・カーンが書いた脚本を、パキスタン出身で「エリザベス:ゴールデンエイジ」のシェカール・カブールが監督した、一捻りあるラブコメの一品です。お隣さんで幼馴染のゾーイとカズがお互い好き同士ではあるのに、ゾーイは男をとっかえひっかえしてるし、カズはお見合い結婚の婚活を始めるという、くっつきそうでくっつかない関係をコミカルにまとめています。あちらの婚活事情ですとか、イギリス映画らしい会話の面白さ、パキスタンの結婚式のシーンの美しさなど、見所も多く、盛りだくさんな映画に仕上がりました。

なかなか本当の愛に出会えなくて、母親からも心配されているゾーイにとっては、カズが相手がいないのに「結婚する」で宣言されて驚きます。相手はこれから探すの?そこに愛はあるんか?と、ゾーイにとっては結構なカルチャーショック。でも、カズの両親は結婚式で初めて相手の顔を知ったくらいなのに、今も仲の良い夫婦を続けています。そういう文化が、ドキュメンタリー作家のゾーイにとっては、映画のいい題材ということで、カズの結婚をカメラで追うことにします。結婚相談所に親子で行って、相手への希望を伝えたり、ムスリムのお見合いパーティとか、やってることは倭国と変わらないみたい。ゾーイがやってるマッチングアプリもあるある感ありますし、出会いから結婚の流れって、倭国もイギリスもそう大きな違いはなさそう。それでも、パキスタンの文化だと、当人同士よりも家と家のつながりが大きいみたいで、その結果、相手選びについても本人よりも親の選択権が強いみたいなんです。このあたりは、倭国でも、親同士の婚活パーティがあるくらいですから、他人事ではないようです。でも、倭国みたいな結婚難民的な扱いではないので、結婚には、お見合い結婚と恋愛結婚があるけど、どっちがいいのかな?くらいのアプローチになっています。

映画の前半は、カズの婚活をコミカルに描いています。細かいセリフの応酬がおかしくて、字幕を追うだけでもかなり笑えるので、この映画は倭国語吹き替え版の方がより楽しめるかもって思っちゃいましたもの。結婚相談員とかゾーイの母親のおかしさは字幕だけでは伝わらないのではないかしら。お見合いから結婚までの流れをテンポよく見せていまして、単純にコメディとしてよくできています。個人的には「職業は医者です」「おお、それは食物連鎖のトップですね」というやり取りがツボでした。前半だけだとカルチャーギャップを笑うコメディみたいなんですが、ゾーイがカズの結婚に納得いかなくなってきて、お話がややこしくなってきます。母親と一緒にカメラを持ってゾーイは、向こうの結婚式の段取りを記録していくとともに、カズの妹ジャミラが結婚式に呼ばれていないことに気づきます。ムスリムでないイギリス人と結婚した彼女は勘当されたことになり、両親とも連絡が取れない状況だったのです。また、初めて直接会った花嫁のマイムーナは意外やイケイケの今風の女子だったことにもちょっとビックリ。それでも式はとどこおりなく終了、カズとマイムーナはめでたく夫婦になり、ロンドンでの生活が始まります。一方、ゾーイも獣医との付き合いを進めて、この人となら結婚してもいいかなって気分にもなっているのですが、逆に彼の方から、自分は二番目の男でいるのは耐えられないと別れを告げられてしまいます。どうやら、向こうもゾーイの気持ちがカズにあるのはお見通しだったみたい。獣医がこれまでゾーイが出会ったクズ男たちと全然違う誠実な人だっただけに、観ているこっちは彼の方に同情しちゃいました。愛あればこそというヒロインの文化は、相手が自分を愛してようが、こっちにその気がないと容赦ない利己的なところがあるってところを見せたのはうまいと思います。

演技陣はヒロイン親子以外は知らない人ばかりでしたけど、各々がそれぞれの文化を背負って好演しています。西洋目線でパキスタン側の文化を否定しないように気を遣ってるのは感じましたが、最後に普遍的な親子の情に持ってくることで、基本、人間そうは違わないよねってところへ落とすのはうまいと思いました。また、愛あればこそのヒロインのダメな部分をきっちりと演じたリリー・ジェームズはラブコメのヒロインとしては華がないなと思ったのですが、その分等身大の女性としての共感がありました。


この先は結末に触れますのでご注意ください。


カズの結婚式も終わり、ゾーイのドキュメンタリーも粗編集版のお披露目試写を関係者向けに行います。ゾーイはカズたちに黙って、妹のジャミラ夫妻のインタビューを入れていたことで、カズの一家の怒りを買ってしまいます。ゾーイとカズもそれっきりとなりますが、カズの家族の集まる日、招かれた母親と一緒にゾーイもカズの実家に向かいます。そして、カズは一人で現れ、マイムーナには実は他に相思相愛の人がいたのに家族のために結婚したことを告げ、離婚することを宣言。さらに、カズは妹のジャミラと夫、そして二人の赤ん坊を家に招き入れます。子供のことを想わない親はいないと、家族は和解し、これで一段落となります。そして、ゾーイとカズは子供の頃、よく遊んだツリーハウスで、お互いの愛を確認し、キスしたところでエンドクレジット。そこでは各々の登場人物が後日談を語って、マイムーナも元気そうでめでたしめでたし。

最初のカズの見合い結婚宣言は、ゾーイにしてみれば、相手をよく知らないで結婚して、そこから愛を育み始めるなんて信じられません。でも、愛ファーストと信じてるのに、ロクでもない男としか恋愛できていないので、カズの毅然とした見合い結婚宣言に反論もできません。じゃあ、この映画が様々な結婚のカタチを並列的に描いているのかというと、そこはラブコメの限界があったみたいです。でも、リアルなカルチャーギャップを描く映画じゃないことは観ていてわかってきます。ゾーイが身の丈感のあるヒロインである以外は、カズは二枚目で性格もいいし、母親が紹介した獣医も誠実な人だし、カズの両親もカズの意思に理解があるし、お見合い相手もみんな美人だし、まあよくできた人たちなんですよ。そういう出来すぎの環境で、さらにマイムーナには本当に好きな人がいたという映画の魔法があってのハッピーエンドというわけです。

そこにいたる過程で、愛の形は色々だよねという見せ方をしつつ、最終的にラブコメの王道に落とし込むという作りは、結構斬新ではあるのですが、単に遠回りしてるだけじゃね?って後味も残っちゃいました。やっぱり好き合っているもの同士が一緒になるのが一番だよねと言う方向に、強引に転がっていくので、ラストが言い訳っぽくなっちゃったかも。まあ、色んな異性と恋愛を繰り返してもダメ、親が選んだ相手でもダメ、そうなると最良のパートナーって?と思わせるのですが、文化の多様性を描く話なら、そこへ落として欲しくないなあって気持ちも出てしまうのですよ。首の皮一枚でうまくいったゾーイとカズだけど、実際はそうはいかないよねって思えてしまったのは、私がジジイだからかしら。目のつけどころはすごくいいんだけど、娯楽映画としてまとめるには難しい題材なのかも。それに恋人じゃないけど幼馴染だからって、仲良すぎる二人は、周囲からしたら結構目障りかもしれないです。自分の彼氏や彼女が、幼馴染と称する異性といちゃつかれたら、何かヤダよなあ。

「アメリ」22年ぶりの鑑賞はアート系じゃない楽しい映画だったという発見がありました。

アメリ1

今回は、横浜みなとみらいのキノシネマ横浜みなとみらい3で、2001年に公開された「アメリ」のリバイバル(← 今はこういう言い方しないのかしら)上映を観てきました。22年前の映画ですけど、観客には若い女性が多かったような。(まあ、私のようなジジイには、40歳以下の女性は全部、「若い女性」になりますが)

アメリ(オドレイ・トトゥ)は軍人の父と教師の母に育てられた空想好きの女の子。母を事故で失って、引きこもり気味の父親を気遣いながら、パリのカフェ・デ・ドゥ・ムーランで働く彼女は、空想好きでイタズラも好きな子供みたいなキュートな娘さん。自分のアパートで誰かの子供時代の宝箱を見つけて、その持ち主を探したり、店員をバカにする八百屋のオヤジの家にイタズラしたり、そんな彼女が駅の証明写真の前にいた若い男に一目惚れ、彼を追いかけたら、アルバムを落としていきました。その中を見ると、捨てられた証明写真のスクラップ。変わった趣味の人のようですが、その中の同じ男が何度も登場してくるのがアメリには気がかりでした。一方、アルバムを落としたニノ(マシュー・カソビッツ)は落とし物ビラを貼って、探し回っています。そこでニノに電話して公園で待ち合わせをするのですが、果たして、二人はラブラブになれるのでしょうか。

「デリカテッセン」や「エイリアン4」などで知られるジャン・ピエール・ジュネが、「ロスト・チルドレン」のギョーム・ローランと共同で脚本を書いてメガホンを取りました。倭国では2001年の秋に公開されました。当時は渋谷系のオシャレ映画というイメージで売り込まれていまして、自分も渋谷PARCOの近くのシネマライズという映画館に並んで鑑賞しました。そんな小洒落た映画という記憶だったのですが、今回、見直してみれば、確かに映像は当時流行ってたシブヤ系フランス映画(← 適当な造語です)の雰囲気なんですが、物語は王道のラブコメで、その幹の部分をものすごくシンプルにして、その分、脇キャラの枝葉を増やしましたって感じの作りになっていました。後、素直に楽しい映画だったんだというのが今回の鑑賞での大きな発見でした。登場人物の子供から老人まで様々な年齢層がひっくるめて「かわいい」で表現できてしまうという、映画の魔法がありまして、何か細かいこと突っ込むと実も蓋もなくなっちゃうような感じ。バカコメディでなくて、そういう大雑把な鑑賞がふさわしい映画って、最近はあまりないんだよなあ。22年前はこういう見方はしていなかったけど、今観ると、素直に至福の時間を楽しむのがベストだと認識を改めました。映画館へ足を運んだら、こういう映画を観たかったんだという発見があると言ったら、ほめ過ぎかな。

オープニングは老人のナレーションで、アメリの生い立ちが語られます。ここは絵本みたいなタッチで幼い頃のエピソードがコミカルに描かれます。映画の冒頭で、物語の始まるまでを絵本の読み聞かせのように語る映画はよくあるのですが、この映画は本編が始まってからも、そのタッチが継続するというのが珍しく、キョトン系ヒロインのアメリが世間と距離を置きながらも様々な人とかかわっていく様を語り部目線で綴っていきます。物語のメインはアメリとニノのラブコメなんですが、枝葉のエピソードが結構ありまして、カフェで店員にしつこく絡む客(ドミニク・ピノン)や、売れない小説家、ちょっと足りない八百屋の店員と意地悪な店主、病気で外に出られずルノワールの模写をしている老人(セルジュ・メルラン)、若い時にダンナと死に別れた不幸な女性(ヨランド・モロー)に、カフェの女主人(クローレ・モーリエ)といった面々に、アメリが絡むエピソードが楽しく、そこで登場人物が金言格言を語っているようで、でもそうでもないって感じがおかしいのですよ。この映画、全編に渡ってエピソードのみをつないだ感じなので、中身があるっちゃあるんだけど、ないって言われればないかもって気分になります。観終えた後も何だか笑顔になっちゃうのも、この映画には幸せ気分だけあるけど中身がないことに気づかされるからだとも言えましょう。

アメリのやってることは、基本子供っぽい。それは純真というわけではなく、子供なりの悪意と善意の両方で成り立っています。父親の家にあったドワーフ人形を世界旅行させたり(カフェのお客のキャビンアテンダントにお願い)、八百屋の主人の部屋に忍び込んでイタズラしたり、老人の子供の頃の宝物を届けてあげたり、いらぬおせっかいでカフェの客とタバコ売りの女性の仲を取り持ったり、などなどホントやってることがガキ。でも、何だか憎めないのは、アメリがかわいいから。何て言うと今は怒られそうなんですが、この映画に登場するちょっとデフォルメされたキャラの皆さんはみんなかわいいのですよ。逆にそう感じられないと、この映画のどこが幸福感満々やねんって突っ込みが入ってしまうかも。「登場人物がみんなかわいい」ってのをうーんと拡大解釈、敷衍すると「人生はすばらしい」につながるかもしれません。でも、そこまで考え込む映画でなく、登場人物みんながどこかかわいげがあることを楽しめたらラッキーってところではないかしら。

幹となっているのはラブコメですから、まず二人の出会いがあり、そこからお互い惹かれあってラブラブというところはちょっとあっさり展開し、さらに二人が仲違いしてしまうところもあっさりと流し、ラストでやっぱりそれでも大好きってところでハッピーになっておしまい。普通のラブコメなら仲違いから仲直りをドラマチックに盛り上げるのですが、そこはさっくりすませているのがちょっと変化球。ただ、出会って一目惚れから、相思相愛になるところが趣向を凝らしていて、面白い見せ場になっています。アメリという女の子がシャイな癖して行動力がすごいという、そんじょそこらにいそうでいないキャラなのが成功していまして、妄想と行動の両方が濃いというのが映画として盛り上がりました。そんなキャラを表現したオドレイ・トトゥの演技も素晴らしく、この人、この映画の後も「愛してる愛してない」のアメリキャラの延長線から、「ロング・エンゲージメント」や「堕天使のパスポート」といったシリアスドラマ、「ロシアン・ドールズ」のような等身大の女性、「ダヴィンチ・コード」のような大作までこなしているのですから、このアメリの強烈キャラも演技力の賜物なのでしょう。

ジュネの演出は、登場人物をリアルとマンガキャラの間のギリギリのラインで描いていまして、バカバカしさと微笑ましさのバランスが見事です。そのバランスは、私が過去に観た映画の中では最良のものでした。この人の映画は「デリカ・テッセン」とか「ロスト・チルドレン」など、マンガチックなキャラのファンタジードタバタを観ているのですが、この映画は、マンガチックな中に生身の人間が描かれていて、それがすごく心地よい味わいにまとまりました。ただ、八百屋のオヤジへのいたずらが酷いとか、タバコ売りとカフェの客を嘘でくっつけるなんてとか、コンプラ的に気になる方にはオススメできません。このご時世では、そういうのもひっくるめて笑える人限定の映画になるのかしら。また、当時、テレビのBGMによく使われた、ヤン・ティルセンの音楽がまた絶品でして、お茶目だけど切なさもある音楽がこの映画を盛り上げています。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



待ち合わせした公園にニノはやってくるのですが、アメリは公衆電話と地面に書いた矢印で彼を翻弄し、丘の上まで上らせたところで、彼のバイクに写真集を戻しておきます。ニノは顔も知らない彼女が気になって仕方がありません。ついに、ニノはアメリの働いているカフェまでやってきます。アメリもドキドキなんですが、結局、ニノはアメリの顔を知らず、アメリの方から声もかけられない。同僚のウエイトレスにメモを渡してもらうのが精一杯。そして、アメリが非番の時、再びニノがやってきますが、同僚にニノが相談をかけて、二人きりで話をしていることをアメリが知って、アメリ意気消沈。アメリが一人で家にいると、ニノが訪ねてきますが、それを追い返してしまうアメリ。しかし、向かいのアパートの病気の老人から電話あり、部屋にいつの間にか置かれていたテレビをつけるとビデオが回って、「大事な人を逃がすな、追いかけろ」というビデオメッセージが。それを見て、彼を追うべく部屋を出ようとすると、ドアの前にニノがいました。抱き合う二人。そして、ラブラブの二人と、他の登場人物のエピローグが出ておしまい。

ラストのエピローグの中では、ドワーフが世界旅行に行ったことに感化されたアメリの父が自分も引きこもりをやめて旅に出るというのが印象的でした。当時はちょっと気取ったおしゃれ系映画だったのですが、今の時代に見直すと、当時は感じなかった愛おしさがぐっときました。これは、自分が年を取ったせいなのか、今が殺伐とした時代だからなのか、でもこの時代だからこそオススメしたい映画です。

「リアリティ」は実際の犯罪捜査の尋問の再現なのに奇妙な感動があって見応えあり。

リアリティ

今回は、平塚のシネプレックス平塚5で「リアリティ」を観てきました。横浜の近所では上映してない映画が、茅ケ崎や平塚のシネコンで上映されていることがありまして、これもそんな1本。事件の事情聴取の記録を再現した映画だというくらいの事前情報でスクリーンに臨みました。

買い物の帰り、リアリティ(シドニー・スウィーニー)が家の前に車を停めると、車の窓をノックする男、そこにはカジュアルな恰好のおじさんが二人。二人はFBIだと名乗り、彼女に聞きたいことがあると言います。彼女が車を降りて、話を聞こうとするとさらに他の男たちも姿を現し、捜査令状があるので家を調べると言い出します。家に犬がいるので、外へ出し、どこか落ち着いて話ができるところへ移動しようということになり、彼女の家の奥部屋へと移動します。おだやかな口調で親しげに話しかけるFBIのギャリック(ジョシュ・ハミルトン)とテイラー(マーチャント・デイヴィス)が言うには、どうも彼女が機密事項の漏洩に関与しているみたいです。なかなか本題に入らない二人のFBI捜査官は、リアリティから何を聞き出そうとしているのでしょうか。

2016のアメリカの大統領選で、ロシアがトランプが有利になるようなネット工作をしたという事件は、ある女性からのメディアへのリークで公になったとされています。その女性がFBIに尋問された際の録音を書き起こして、そのまま再現した舞台劇「Is this a Room?」を作ったティナ・サッターが映画用の脚色をしてメガホンを取りました。映画は82分というタイトな尺で、彼女の家での尋問の様子を再現し、少しだけその事件についてのテレビ報道を見せるという大変シンプルな作りです。そんなシンプルな作りの中で、濃密な会話劇が行われる緊張感がまず見応えがあります。さらに、政治的な問題を織り込みつつ、事実と報道のギャップとか様々な事件の側面を見せ、そして、最後には奇妙な感動があるという不思議な映画でした。別に泣けたわけではないので、感動という言葉は適切なじゃないかもしれませんが、心を揺さぶる何かがありました。今年観た映画の中では、一番「すごい」映画かも。

最初に登場するヒロインはいかにも普通の女の子という感じです。ギャリック捜査官と犬についての会話をしているあたりの世間話の尺が結構長いのですが、彼がどこまで彼女の周囲を押さえているのは、そのことを彼女がどこまで気づいているのかといったところがサスペンス映画のごとく緊張感があって、目が離せません。あまりにも、普通の会話だからこそ、目が離せない緊張感が続くという面白さが見事でした。舞台よりも、カメラが登場人物に寄れる映画だからこそ、普通の会話での緊張感がより出たように思います。主要登場人物3人の会話だけで淡々と進んでいくのですが、常にどこか緊張感をはらんだ演出が続きます。特に要所要所で流れるネイサン・ミケイのシンセサイザーによる音楽が単調な会話の流れの中に不穏な空気を察知させたりするあたりが見事でして、最近の映画の中では、音楽を最大限に使い切った作品だったように思いました。サントラ盤は出ていないようですが、ネイサン・ミケイの名前は覚えておいた方がよさそうです。

捜査官は、あくまで任意だからということを強調し、リアリティから事実を聞き出そうとします。彼女が国家安全保障局(NSA)契約社員でペルシャ語など中東の言語に精通していて、中東への空軍に従軍したいと思っていたのですが、なかなかその希望がかなえられないまま、中東情報の翻訳をしていたこと、そして、NSAの機密情報にアクセスする権限を持っていたことが尋問の中からわかってきます。若いのに、なかなかの野心家で勉強家らしいのですよ。(アメリカだとそういうのが普通なのかしら)二人の捜査官は、かなり事実関係を押さえた上で尋問しているようなのですが、「これはこういうことだろ」と決めつけた言い方をしないで、あくまで自発的な彼女の言葉を待ちます。彼女の言葉に対して、FBIが知っていることを小出しにするやり方で、追い詰めていくのですが、その際も、彼女が前言を翻すような言動をしても、その矛盾を突くようなことはせず、その新しい言葉をもとに更に話を進めるというやり方です。それも、彼女の家の中で行う尋問でして、必要以上にプレッシャーを与えることで、彼女の言葉を奪わないように気遣いをしているのですよ。へー、やけに紳士的で忍耐強いなあって感心。どうも、彼女を凶悪犯だとは考えていないようで、それでも情報リークした動機を聞き出したいみたいなんです。

会話は、声を荒げることなく、淡々と進むのですが、そのなかで、FBIの思惑や、リアリティが抱えている不満や苛立ちが透けて見えてくるのですよ。言葉のやり取りだけの映画なのに、その言葉の裏の部分が伝わってくるのが圧巻でした。二人の捜査官もあくまで職務を遂行しているのに、きちんと人間として描かれていまして、平静を装うリアリティも一人の人間として奥行きを感じさせます。実際の尋問記録を映像化しているのに、単なる事実だけでなく、人間ドラマの域にまで持って行ったティナ・サッターの演出は素晴らしく、すごく平易な会話の中で、人間をきちんと表現した演技陣もすごいと思います。特にリアリティを演じたシドニー・スウィーニーのずっとアップの絵での演技はマジですごい。



この先は結末に触れますのでご注意ください。(まあ、結末は報道されている事実が説明されるだけですが)



FBIの質問は、なぜを積み上げていくやり方で、リアリティがかなりまずいことをしたということ、しかし、それは利益やイデオロギーのためではないと思っていることを伝えます。最初は平静を装っていた彼女ですが、機密漏洩の話をされた時、自分から印刷した情報の話をして、そこを指摘されて、少しずつ動揺の色が見え始めます。最初は、情報の持ち出しは一切ないと言いきっていたリアリティですが、だんだんと印刷はしたかも、でも見たら廃棄ボックスに入れてるしになって、最終的に、印刷したものを隠して持ち出して、メディアへ郵送したことを自供するのでした。自分の家を出た彼女を別の女性捜査官が彼女に手錠をかけて連行します。ニュース画面が出て、彼女について典型的なリーク犯のように語られ、さらにリアリティが姉にペットのことを気遣う電話の録音が流れ、彼女が即裁判にかけられ、5年の懲役という重い判決が下り、再三の保釈要求は却下され、今は刑期前ですが、監察下に置かれた状態で暮らしているという字幕が出て、エンドクレジット。

ラストで彼女が罪状より重い量刑となっていること、この事件が外国による大統領選介入よりも情報漏洩の方にスポットライトが当たっているということを訴えてきます。映画で描かれるプライベートな行動に対するメディアや政府の取り上げ方がおかしいというのは、この映画のリアリティを見ていると、すごく腑に落ちました。事実は一つだけど、それに対する政府、メディア、司法の対応は何か偏向しているのですよ。それに、これがロシアのネットによる選挙に対する違法行為は、またこの先も起こり続けるであろうこと、それがアメリカのある人たちにとって利益になるらしいというところまで見えてきます。そういうヤバい深読みができる一方で、リアリティと捜査官のやり取りには、奇妙な感動がありました。事実に対する真摯なアプローチと言うのかな。もちろん、FBIの捜査官は自供を導くための細かいテクニックを使っているのでしょうけど、それは選挙候補のネット誘導による印象操作のような陰湿でも悪質でもなく、リアリティに本当のところを語らせることにフォーカスしていて、リアリティも捜査官に対して敵対心や恐怖心を持たずに会話しているところが、私にはツボだったみたいです。人と人との会話劇でいて、犯罪捜査でいて、そこにサスペンスはあるのですが、きちんと人に対する敬意が感じられるのに、それがネットやメディアに乗った時の扱いの酷さや歪曲や思い込みが何か不快なんですよ。この事件を、こういう形で切り取ることで色々なことが見えてくるという発見の多い映画でした。2023年のベストワン映画ですね、これは。

「ぼくは君たちを憎まないことにした」はそのメッセージより、発した人間の心情に寄り添った映画でした。

ぼくは君たちを

今回は、横浜みなとみらいのキノシネマ横浜みなとみらい1で、新作の「ぼくは君たちを憎まないことにした」を観てきました。テロで家族を失った人が「君たちを憎まない」というメッセージを出した話は知っていましたので、どっかで少しでも共感ポイントがあるといいなあっていう微かな期待でスクリーンに臨みました。

作家のアントワーヌ(ピエール・ドゥラドンシャン)は妻エレーヌ(カメリア・フォルダーナ)と幼い息子メルヴィル(ゾーエ・イオリオ)との3人暮らし。2015年11月13日、エレーヌは夜、バタクラン劇場へコンサートへ出かけた時、イスラム国による同時多発テロに巻き込まれてしまいます。テロの一報を友人からのメールで知り、妻へ電話するのですがつながらず、エレーヌの兄弟も集まってきます。不安にかられて、負傷者の搬送された病院をまわって、妻を探し回りますが見つからず、そして、翌日、彼女の死を知るのでした。彼女の母親や姉と一緒に妻の亡骸を確認したアントワーヌは心を落ち着かせた時、ふと思い立って、テロリストに向けた「ぼくは君たちを憎まないことにした」というメッセージをネットに上げます。彼の投稿は多くの反響を呼び「ル・モンド」誌にも掲載され、彼は一躍時の人となります。彼は息子との暮らしを続けていきますが、妻の喪失感から感情を爆発させることもあります。しかし、息子のメルヴィルとの暮らしは少しずつ彼を前向きにしていくのでした。

2015年のイスラム国の同時多発テロで多くの犠牲者が出ました。フランスの国民は怒りと悲しみの感情の中で不安な日々を送ることになるのですが、そんな中で「テロリストを憎まない」という投稿は多くの人の注目を惹きます。この実話に基づいて、ヤン・ブラーレン、マルク・ブルーバウム、ステファニー・カルダンとキリアン・リートホーフが共同で脚本を書き、リートホーフがメガホンを取りました。映画は、テロのあった日の朝から始まり、アントワーヌやエレーヌの幸せそうな暮らしぶりを見せ、その夜、エレーヌと友人がコンサートに行くのをアントワーヌが見送ります。そして、メールやテレビでテロのことを知ったアントワーヌが妻を探しまわる様子を描き、彼女の死を知り、ネットに投稿するという流れになります。

妻が無差別テロで殺された時に「ぼくは君たちを憎まない」なんて、どういう心境だったら言えるんだろうというのが素朴が疑問でした。街には武装した警察や軍が厳戒態勢を取っています。また、どこかで市民が殺されるのかもしれない、そんな中で、冷静でよくできた文章を書けるのは、アントワーヌって聖人なのか変人なのか。そんな興味でスクリーンに臨んだのですが、このアントワーヌが聖人でもないし、プライベートはそれほどでもない人間なのが、意外というか、やっぱりというか。息子に対してはいい父親であろうとするのですが、妻の死のショックで酒に走って、息子に目が届かなくなるし、エレーヌの姉が葬儀とかいろいろと忙しくしても、アントワーヌはそういうことから逃げ回って役に立たない、しかもそのことを言われると偉そうに開き直る。気の毒ではあるけど、同情や尊敬を誘うタイプではなさそう。

じゃあ、なぜ「ぼくは君たちを憎まない」なんて文章を投稿しちゃったのか。目立ちたがりの物書きが逆張りしただけのことなのかというと、どうもそうではないらしい。テロのニュースを知ってから、不安と苛立ちの時間をずっと過ごしてきたアントワーヌですが、だいぶ待たされた後、妻の遺体に対面した時、すごく穏やかな表情になります。妻の死を確認して嬉しいわけはないのに、それまでの不安と苛立ちが和らいだ、そのタイミングが彼にそういう文章を書かせたという見せ方をしているのが面白いと思いました。そして、そのことが怒りの感情に走りそうになる彼の歯止めになっているのです。家族をテロリストに殺されて「ぼくは君たちを憎まない」なんて、偽善者か頭の変な奴じゃないかという突っ込みが出るところですが、この映画では、普通の人間でも、そういう文章を書きたくなるタイミングがあるんだよというのを見せてくれています。アントワーヌが、妻の死の悲しみを乗り越えて、こういう文章を書いたわけではないってところに納得とちょっとだけ共感してしまいました。

あー、この感じ、昔の映画で観たことあるなあって思い出したのは「セントラル・ステーション」という映画でした。大都市のターミナル駅で手紙の代筆をしているおばさんが、これまでロクでもない人生を送ってきたのに、なぜか魔が差したようにいいことをしてしまうというお話でした。人間、魔が差して、いいことをしちゃうことがあるというところにおかしさと感動がありました。この映画のアントワーヌとはまるで別の話ではあるのですが、人間どこか感情のエアポケットに落ちちゃう時があって、その時に良くも悪くも想定外のことをしちゃうことがあるんじゃないかという気がするのです。アントワーヌの投稿に感動された方には、ひどい言い方に聞こえるかもしれませんが、この映画に出てくるアントワーヌはよき夫、良き父親ではあるものの、その他については特別な人間ではないように思えます。良き家庭人ではある彼が、感情の隙間に陥った時に書いた文章によって、人を感動させ、自分もそのことによって覚醒したお話だと思えてしまったのですよ。

肉親を理不尽に殺された人間が、悲しみを乗り越えて、憎しみの連鎖を断つのは、並大抵なことではないと思います。それは世界の歴史が現在進行形で証明してしまっているので、「ぼくは君たちを憎まない」というのはある意味、きれいごとだと思っています。でも、そっちへ少しでも近づかないとテロや戦争はなくなりません。その中間地点にいる自分にとっては、この話は知っておいた方がよいことだと思います。でも、それは単なるきれいごとではなく、文章を書いた後もアントワーヌは悲しみと喪失感を乗り越えられていないところも知る必要があり、映画はそのことを見せることで、彼の言葉は自分たちと地続きの世界にあることを再認識させてくれます。そして、彼自身が自分の言葉とおりの感情を維持できなくて、自分を自分の言葉で戒めているというところも重要です。それを理解できないと、彼を偽善者だとか責めてしまうかもしれません。あるいは、言行不一致のダメ人間だとか言われそう。でも、ある人の人生とその人の発した言葉は、完全一致ではなく、微妙な距離感を保ちつつ、時には寄り添ったり、離れたりもしてるってことを理解すべきなんだと思います。自分のことだと「まあ、あの時はああ言ったけどさあ」って言い訳するのに、他人が同じ事をするとすごく不愉快に感じたり、責めたりしちゃうのは、気をつけないいけないと思わせる映画でもありました。

映画の中で、アントワーヌが地下鉄に乗っていると若い女性から「私もテロの時、劇場にいました。自分の想いをみんなに伝えてくれてありがとう」と声をかけられるシーンがありました。倭国人の私からすると「ホントかよ」と思えてしまったのですが、もし、これがホントの話なら、そういう人もいるということを知る必要がある映画でもありました。映画は、息子と二人でコルシカ島へ旅行へ行き、木洩れ日の下でハンモックに揺られるアントワーヌの姿で終わります。すごく穏やかな時間ですが、彼の人生はここで終わりではなく、これからも山あり谷ありなんだろうなあって思いますし、息子に妻の死の詳細を伝えるときも来るでしょう。でも、彼の書いた文章には嘘はなかったし、彼はその言葉を胸に生きていくだろうというラストには、じんわりとくる感動がありました。先日観た「月」で、現実ときれいごとの対立構造に違和感を覚えた自分としては、その両方の狭間を行きつ戻りつするアントワーヌの姿に素直に納得と共感ができました。「ぼくは君たちを憎まない」というメッセージそのものより、そういう言葉を発した人の想いを受け取る映画だと思った次第です。

すんごい久しぶりに観た「ゴジラ対メガロ」はやっぱりZ級の味わいかなあ。

ゴジラ対メガロ

「ゴジラー1.0」の公開に合わせて、ゴジラ映画が色々テレビ放映されています。そんな中ですごく久しぶりに「ゴジラ対メガロ」を観てしまいました。

1973年の東宝チャンピオンまつりで公開されました。この前年に公開されたのが「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」でして、これは小学生だった自分には、結構ゴジラが苦戦したり、宇宙人の正体がゴキブリだったり、他作品からの流用とは言え、伊福部昭の音楽が大変かっこよかったので、結構評価は高かったです。その翌年の新聞広告で、1973年の東宝の公開映画ラインナップが並んでいまして、その中に「海底王国破壊作戦 ゴジラ対メガロ」という名前があったので、それなりの期待を持ってスクリーンに臨みました。観終わってみれば、「何だこれは?」って感じ。怪獣プロレスは仕方ないにしても、全体に安っぽすぎるだろう、特にジェットジャガーがロボットなのに意思を持つだけならまだしも、突然巨大化はないだろうと、小学生目線でもかなりの低評価になってしまいました。この前、評判がよくなかった昭和のガメラシリーズを今の目で観てみれば、色々頑張ってるじゃんっていい方に評価が変わったので、この映画も当時よりは評価が良くなるかもって期待もありました。

とは言え、この先はこの映画を良く言ってないので、そういうのが嫌いな方はパスしてください。

核実験の影響はゴジラのいる怪獣島にも影響を及ぼし、300万年の歴史を持つシートピア海底王国にも多くの犠牲が出てしまいます。シートピアの王は、自分たちの平和を脅かした地上人に対して報復を宣言し、地上に地割れを起こし、守護神でもある怪獣メガロを送り込むのでした。メガロを東京へ誘導する水先案内人として、市井の発明家である伊吹吾郎(佐々木勝彦)の開発した人型ロボットのジェットジャガーに目をつけて、彼の研究室に工作員が侵入し、吾郎と弟の六郎(川瀬裕之)を拉致し、シートピア海底王国へ連れ去ろうとします。しかし、二人を乗せたコンテナは、地割れへ行く途中のダムで、メガロに吹っ飛ばされて、二人は何とか難を逃れます。ジェットジャガーにナビゲートされて、街を破壊しながら進撃するメガロに対し、吾郎は電波でなく超音波を使って、怪獣島へ行ってゴジラに救援を求める指示を出します。怪獣島へ飛んだジェットジャガーはゴジラに事情を伝え、戻ってくると突然巨大化しメガロに向かっていきます。一方、シートピアの王は、Mハンター星に協力を仰ぎ、ガイガンがメガロの応援にやってきます。メガロとガイガンの攻撃を受けて、ジェットジャガーもグロッキー状態のところへ、ゴジラが現れ、2対2の怪獣タッグマッチが始まるのでした。

過去のゴジラシリーズで「キングコング対ゴジラ」や「怪獣大戦争」など多くの脚本を書いている関沢新一の原作を、「エスパイ」「惑星大戦争」の福田純が脚色し、メガホンも取りました。人類の核実験のせいで、北地区が壊滅状態になってしまったシートピア海底王国が地上への報復のために守護神メガロを送り込んだ、このあたりまでは記憶があります。でも、結末はどうなったんだかあまり記憶がなくて、そこも確認したかったのですが、そこに至るまで色々と発見がありました。

メガロが都市破壊をするシーンや防衛軍と戦うシーンはほとんど、過去の映画からの流用カットでまかなっています。当時の小学生の私でも、群衆の避難シーンは「モスラ対ゴジラ」だなあ、とか光線による都市破壊は「地球最大の決戦」のキングギドラの破壊シーンだとか気づいたのですが、今見直すとそんなもんじゃなくて戦車やレーザー砲は「怪獣総進撃」や「サンダ対ガイラ」から、ガイガンの格闘シーンは前作「ゴジラ対ガイガン」からの流用とか、とにかくオリジナルカットはダム破壊と原っぱでの怪獣プロレスシーンだけじゃないのって思ってしまいました。まあ、前の作品から特撮カットを流用するというのは、ガメラシリーズでもやってますし、本家円谷英二監督作でもあることなので、そこを目くじら立てることもないのですが、それでも流用カットの数が多いし、編集が雑。メガロ側は昼間なのに攻撃する方が夜なんていうカット割りでは、エド・ウッドのサイテー映画「プラン9」を笑えないよなあ。また、ゴジラの造形が目がくりっとした、すごく特徴のあるカワイイゴジラなので、他の映画からの流用カットだと、明らかにゴジラの顔が違うのですよ。あちこちから流用するのなら、もっと無難な造形にすればよかったのに。

また、ジェット・ジャガーが自分の意思で巨大化するのもやっぱり説得力なく、ラストで元のサイズに戻って意思がなくなるというのも、何かなあ。この類の嘘には、昔、江戸川乱歩や海野十三の子供向け冒険小説で育った世代としては、かなり寛容なはずなんだけど、なまじロボットがとかコンピュータがといった説明がついた分、かえってリアリティがなくなってしまいました。先日観た、昔のガメラシリーズの嘘には、暖かい視線で接することができたんだけど、こっちは引いちゃったんですよ。何が違うのかって聞かれると困るのですが、観客へのサービス精神の違いってことなのかなあ。ガメラの方が子供目線まで降りて作られてるので、子供気分で許容できちゃうって感じかしら。

ゴジラ、ジェットジャガー対メガロ、ガイガンのタッグマッチは、アングルからカメラワークまで、もう怪獣映画というよりは、カット割りの細かい怪獣ショー(又は、ウルトラファイトというか)になっちゃっています。着ぐるみの中の人の動きにしか見えないアクションは映画館の大画面でやるものではないと思いました。当時は、第二期ウルトラマンシリーズや仮面ライダーがテレビ放映されていたころで、そのテレビでやってることをまんま映画館でやらなくてもって子供心にも感じてしまいました。メガロの火炎弾によって、ゴジラとジェットジャガーが炎に囲まれるシーンは、絵面も怪獣の演技ももろ時代劇になってましたからね。ゴジラ映画の本によると、この頃はお金も時間もなくて、ダム破壊シーンに手間とお金をかけるのが精一杯だったんですって。

でも、お金と時間が足りないだけじゃないってところもありました。シートピアの守護神がカブトムシってのは何でやねんとか、シートピアの工作員がやたら弱いとか、細かい突っ込みどころが多いのもそうなんですが、それ以上にドラマとして変じゃないのってところが多くて。シートピア海底王国ってのは核実験の被害者なんだけど、そのことを地上人はほとんど知らない。多分、主人公もよくわかってない。また、中盤、主人公兄弟を拉致して、海底王国へ連れて行くというくだりになるんですが、結局、二人は海底王国へは行かなくて、そのまま怪獣タッグマッチの方へ話が行ってしまう。最後は、シートピア海底王国が地割れを塞いで、ダウンしたメガロはその地割れの中へ吸い込まれていくのですが、結局、シートピアがどうなったのか最後までよくわからなかったです。エンドマークが出て、「え、シートピアはどうなったの?}と見落としたのかしれないと15分くらい巻き戻してみたのですが、シートピアはどういうつもりで地割れを元に戻したのかは、一切説明がありませんでした。シートピアは負けを宣言したのか、「また来るぞ」といったん引き上げたのか、そのあたりも説明しないまま、何のフォローもなし。まあ、核実験の被害者であるシートピアが、ゴジラにボコボコにされたというのは、さすがに大きな声では言いにくかったのかもしれませんが、そこを工夫して見せるのがお話を作る人の知恵だと思うのですよ。お金や時間がないのはわかるけど、それと関係ないところでもダメじゃんってのが、素直な感想です。だったら、発端を核実験じゃなくして、シートピアを完全に悪役にするとか(「海底軍艦」みたいに)、いくらでもやりようがあったのに、何か作り手のうっちゃり感がひどいよなあ。

私は、ゴジラが反戦反核の体現者だとは思ってませんし、ヒーローになろうが、悪役になろうが、映画がそれで面白くなるのならどっちでもいいと思っています。ただ、お話が手抜きすぎるのは、ダメだよなあって思うわけです。結局、海底王国と人類の全面戦争の前哨戦として、両方の用心棒が闘って、人類の用心棒が勝ちましたってお話なんですが、観ている方はどっちに肩入れしていいのかわからないし、この結末は後味よくないし、ジェットジャガーは能面みたいなのにヘラヘラしてるしと、映画としてはひどいなあって評価になっちゃいました。4大怪獣タッグマッチを観るためだけの映画だと割り切ると、Z級がC級くらいに上がるとは思いますし、遊園地の怪獣ショーの豪華版を映画館で観られるアトラクションだと思えば、親子連れで楽しめるねって納得もできます。今、映画館でお笑いライブとか舞台挨拶の生実況をやったりしてますから、そういう映画じゃないものを映画館で観る走りだと思えば、時代先取り感はあったのかもしれません。

当時を思い返してみれば、東宝チャンピオンまつりを観に行くというのは、子供にとっては、学校の長い休みの時の楽しい一大イベントだったわけですから、4大怪獣を大画面で観られるイベントのどこが悪い、後になって大人目線で「映画としては云々」とケチつけるんじゃねえっていう意見もあるでしょうし、それはごもっともだとも思います。でも、他のもっと映画として出来のいいゴジラと同列に並ばれると、お前はそうじゃないだろって思ってしまうのも、ゴジラファンの一つの意見としてご容赦願いたいところです。

「私がやりました」はマジ度皆無のベタなコメディ。でも最近こういうのが少ないから貴重。

私がやりました

今回は新作の「私がやりました」を日比谷のTOHOシネマズシャンテ2で観てきました。ここはフラットな場内で、昔は前の席にちょっと大柄な人が座るとスクリーンが前の人の頭で欠けることもあったのですが、スクリーンの位置を上にずらしたのか、並の座高の人なら大丈夫くらいに見易い映画館になっていました。また、ここはTOHOシネマズの中で珍しくスクリーンサイズを上映サイズに合わせて変えてくれます。今回もビスタサイズから本編上映前にシネスコサイズに画面サイズが変わってちょっと感動。昔は当たり前だったことにささやかに感動しちゃう変な時代だわ。

1935年のパリ、売れない女優のマドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)は役をあげるから愛人になれというプロデューサーを振り切って家に帰ると、滞納している部屋代の催促が来ていて、ルームメイトで弁護士のポーリーヌ(レベッカ・マルデール)が家主を追い出したところでした。結局、役ももらえず家賃も払えないと頭を抱える二人のところに刑事が訪ねてきます。マドレーヌを口説いたプロデューサがマドレーヌが訪ねた後くらいに銃で殺され、30万フランが奪われたというのです。部屋からマドレーヌの銃が発見されたことで、ラビュセ判事(ファブリス・ルキーニ)はマドレーヌが犯人と睨んで呼びつけます。しかし、マドレーヌは否定し、30万フランが葉巻入れから発見されたことから、彼女の容疑は薄まります。しかし、ポーリーヌと一計を案じたマドレーヌは、実は殺したのは私ですと名乗りでます。プロデューサーによって愛人になるように強要され、押し倒されて抵抗した時、机にあった彼の銃で射殺したのだと自白して、裁判となります。これで事件解決と判事も大喜び、そして、裁判となり、ポーリーヌは、か弱い女性が男に襲われて貞操の危機に瀕した時の正当防衛という論陣を張って、マドレーヌを弁護します。何でやってもいない殺人を自白しちゃったのかしら。

「スイミング・プール」「まぼろし」「すべてうまくいきますように」などで知られるフランソワ・オゾンが、ジョルジュ・ベル&ルイ・ヴェルヌイユの原作小説「Mon Crime」を脚色し、メガホンを取りました。1935年という時代を舞台に、大物プロデューサーのセクハラという今風のネタをきっかけに起きた殺人事件の顛末を面白おかしくまとめたブラックコメディの逸品です。オゾンの映画は、人間のありようをちょっと斜に構えた視点で描いたものが多いのですが、この映画は展開は一捻りあるものの、ベタなコメディの作りになっていまして。ラビュセ判事役のファブリス・ルキーニなんて吉本新喜劇みたいなテンション高いバカ演技で笑いをとります。殺人事件を扱ったお話なので、作り方次第ではクールでシニカルな笑いになるところをあえてコテコテの笑いへ持って行ったセンスが面白いと思いました。

マドレーヌとポーリーヌは、美人さんだけどお金がない。マドレーヌは女優だけどなかなか芽が出ません。大物プロデューサーの目に留まって役をもらえると思ったら、その代わりに愛人になれと押し倒されて、イライラマックスの状態だったのですが、そのプロデューサーが殺されてザマア見ろの気分。さらに、彼女に殺人の嫌疑がかかったことで、自分を殺人犯として世間に売り込もうとするのです。裁判では、ポーリーンが、か弱い女性が犯されそうになって、抵抗した結果、仕方なくそこにあった銃で相手を撃ったと論じます。もともとが1930年代の戯曲が原作だそうですが、当時としてもこういう視点で殺人が正当化されちゃう話が笑えるネタだったというのは驚きではあります。法廷シーンは、登場人物の大芝居っぷりもおかしく、リアリティをすっとばかした展開は、殺人をお題にバカコメディの笑いを運んできます。ヒロイン二人の「やってます」感満々の胡散臭いキャラも、きれいにお笑いにはまりました。殺人事件の裁判なのに、みんなふざけてる感じがおかしいのですよ。

で、正当防衛が認められて、マドレーヌは無罪放免。すると取材の申し込みが来るわ、映画出演の話が来るわで、一躍時の人となります。舞台でも主役をもらい、これでハッピーエンドになるかと思いきや、ポスターに名前と顔があったのにちっとも出てこないなあって思っていたイザベル・ユペールが登場して、さらにドタバタに輪をかけます。若いヒロイン二人はちょっと今風キャラ入っていてカワイイ感じなんですが、ユペールはコテコテの大阪のオバちゃんで登場して、ベタな笑いをひっぱります。フランソワ・オゾンの映画って、人間が持っている変なところを、隙間を引っ張り出すように拡大して見せるってイメージがありました。そこに作り手の悪意みたいなものが感じられて、面白さになっていたのですが、この映画では、その悪意を封印して、殺人事件を取り巻く人々を、「もー、みんなお茶目さん!」って感じで描いた結果、何ともケッタイなハッピーエンドとなりました。撮影や音楽はマジメな犯罪映画のタッチなので、そのギャップの笑いも乗っかりました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



無罪判決の後、豪勢なホテル住まいになったマドレーヌとポーリーヌ。そんな二人の前に変なおばさんが現れます。彼女は映画がサイレント時代の大女優オデット(イザベル・ユペール)でした。カムバックを夢見るもののそれもかなわず、お金もない彼女がかつての知り合いのプロデューサーを訪ねたのですが相手にされず、逆上して殺してしまったのです。ところがその殺人をマドレーヌに横取りされたので、その分け前をよこせ、さもないとこのことを世間にばらすと脅すのですが、若い二人はあっさり拒否。オデットは現場に居合わせた証拠も持っていて、ラビュセ判事にそれを突き付けて、自分がやったと言ったものの、もう今さらと相手にされません。しかし、マドレーヌとポーリーヌもこのままでは、まずいことになるかもと、マドレーヌの主演舞台の相手役に彼女を送り、さらに、マドレーヌの恋人の父親の会社がお金に困っているのを知って、マドレーヌのファンの富豪を使って、大口の融資をさせる一方で、オデットの存在を父親に知らせ、オデットに金を渡さないと、全てがオジャンになると吹き込んで、オデットに小切手を渡すことに成功します。マドレーヌとオデットの主演舞台は、二人で悪徳プロデューサーを撃ち殺すお話に代わり、二人は満場の拍手を浴びるのでした。めでたし、めでたし。

有名になったマドレーヌには言い寄る男もいました。そんな中に金持ちのパルマレードがいました。オデットに渡す金を作るために彼に色仕掛けで迫ってみると、意外や彼はマドレーヌのお願いを聞いてくれ、さらに妻一筋だからと手は出さないという変ないい人ぶり。彼のおかげで、恋人の父親の会社は再建の目処が立ち、その父親からオデットに渡す金を捻出できたという一石二鳥の落ちがつきます。あまりにもマドレーヌに都合よく話が進んで、あれよあれよという間の大団円となります。この映画、プロデューサーのセクハラですとか、女性差別といった今風の社会問題ネタを扱っているように見えるのですが、後半のいい加減かつご都合主義の展開で、そういうマジな部分も笑い飛ばしてしまうので、難しいこと抜きで面白かったねえって後味で劇場を後にすることができます。最近の映画の、ヒーローものでも、スパイアクションでも、主人公が悩んだり葛藤したりするのが、あまり好きじゃない私としては、この誰も悩まない、真面目な奴が誰もいない映画は、ある意味痛快で、大変面白かったです。今だからこそ、こういう映画がもっと作られて欲しいわあって、ほんと思います。だって、今、みんなマジ過ぎるんだよなあ。

「ゴジラ-1.0」はゴジラを脇役に置いて、感動的な展開もあるんだけど、人間ドラマが全体的に薄め。

ゴジラー1

今回は新作の「ゴジラ-1.0」をTOHOシネマズ川崎6で観てきました。昔ながらのつくりの劇場で大きさとしては中規模クラスになるのかな。シネコン風縦長のつくりで大画面傾斜きつめの作りよりは、こっちの方が好き。ウィークデーだからほとんど人いないし。

戦争末期、敷島(仲木隆之介)は特攻隊で飛び立ったものの、飛行機の故障を理由に大戸島の飛行場に着陸しますがそこを巨大な恐竜のような怪物が襲撃。彼が機関砲の引き金をひくのをためらっているうちに、彼と整備兵の橘(青木崇高)以外全員死亡。橘に責められながらも、倭国に戻れば、彼を見送った父母は空襲で亡くなっていました。ある日、街で出会った赤ん坊を連れた女、典子(浜辺美波)と知り合い、彼女は敷島の家に居ついてしまいます。典子も空襲で家族を失い、その際見ず知らずの母親から赤ん坊を託されていたのでした。大戸島の夢でうなされ続ける敷島ですが、給料のいい機雷除去の仕事を得て、血のつながらない3人の生活が立つようになっていきます。機雷除去の木造船の乗組員、秋津(佐々木蔵之介)、野田(吉岡秀隆)、水島(山田裕貴)と、海に残された機雷を爆破していきます。そんな時、太平洋で巨大生物が発見され、それが倭国へ迫ってきていました。米ソの緊張から、米軍は倭国を防衛する行動をとれない状況で、廃棄前の戦艦が倭国へ向かうことになり、それまでの時間稼ぎに敷島たちの船に、巨大生物を足止めの命令が出ます。しかし、米軍の戦艦の残骸を見て、これは無理だと思う4人ですが、そこへ現れたのが大戸島で見た怪物がさらにでっかくなった奴。機雷をぶつけて爆破させるのですが、そのくらいではびくともしない怪物。何とか間に合った戦艦も、怪物の放った光線で木っ端みじん。そして、大戸島の伝説からゴジラと名付けられたその怪物は東京に上陸してくるのでした。

「ALWAYS 三丁目の夕日」「永遠のゼロ」などで知られる、山崎貴監督が自ら脚本を書いてメガホンを取り、白組を率いてVFXも担当した、ゴジラの最新作ということになります。戦争直後の昭和25年にゴジラが倭国を襲うという、オリジナルの「ゴジラ」の前日談ではない並行世界のお話ということになります。まあ「シン・ゴジラ」でもオリジナル関係なくやりたい放題やったわけですし、こういう設定リセットは過去のゴジラ映画でも何度かやっていますから、珍しいことではありません。この映画は、元特攻隊の生き残りでトラウマを抱えた主人公がどう人生を再生するのかという話に、ゴジラが絡むという感じでしょうか。まあ、過去にも、ゴジラが主役とは言い難い映画はありました。「怪獣大戦争」とか「ゴジラ×メカゴジラ」は物語的にも演出でもゴジラは脇役扱いですからね。この映画はタイトルは「ゴジラ-1.0」ですが、ゴジラが主役じゃないってのは変だと言われそうですが、「ジョーズ」の主役は鮫かと言われたら違うよなあ、とまあ、そんな感じで。

映画の冒頭で、ゴジラが登場するので、これはゴジラ出ずっぱりの映画かと期待させるのですが、そこから先は復員してからの主人公のトラウマの日々がかなりの尺で描かれます。昭和20年から25年あたりまでの時期に当たるようで、その間に典子と一緒に住むようになり、お金に困って機雷除去という危険な仕事に就くことになります。山崎貴の脚本・演出はメッセージ的な部分を全て登場人物にセリフで語らせるスタイルを取っていまして、時として説教くさかったり、無理やり言わせてる感があるのは残念。そんな語り過ぎの登場人物の中では、近所のおばさんを演じた安藤サクラがセリフ少なめの儲け役でした。ここまでの展開で、死に損なった上に他人の死の責任も負った主人公を設定するために、この時代を選んだというところは納得できました。現代の倭国を舞台に生と死の際々にいる人間を設定するのは無理があります。さらに飛行機乗りで銃器を操れるという設定だと、舞台をこの時代にしないと無理だよなあって、そこは感心しました。でも、尺が長いという印象は残りました。「マタンゴ」で、物語にキノコが登場するまでの尺くらいありましたもの。(←マニアにしか伝わらない。)

ちっちゃな木造船で機雷除去をしていた敷島たちが怪物の足止め要員にされちゃうところから、やっとゴジラが絡んできます。海に深海魚が浮かんでくるとゴジラが近い印で、敷島たちの周囲にも深海魚が浮いてきて、いよいよゴジラが登場します。船にある機雷をぶつけてみても動じることなく、船を追ってくるゴジラはかなりの迫力。最後の機雷を口に放り込んで、機関砲で撃つ(← あ、ジョーズ?)とちょっとはダメージがあったみたいだけど、すぐに傷が再生するという、もう不死身じゃん、こいつ。そして、もうこれまでと言う時に、騎兵隊のごとく登場する戦艦もゴジラの光線により大爆発。何とか逃げられた敷島たちですが、ゴジラは容赦なく上陸してきます。真昼間の銀座を逃げる人々を踏みつぶしながら進むゴジラ。銀座へ働きに出るようになった典子も電車に乗っていてゴジラに襲われ、逃げまどいますが、駆け付けた敷島に助けられます。しかし、戦車隊の攻撃に怒ったゴジラが光線を発すると、大爆発が起こり、典子はその爆風に飲まれてしまうのでした。

海のシーンでゴジラのすごさを存分に見せる演出は成功してまして、これでは誰も太刀打ちできまいと思わせる迫力がありました。その後、唐突に銀座に現れるシーンも見応えありましたが、都市破壊の図としてはやや物足りない感じもしちゃいまして、光線一発で周囲が焼け野原になるところは怪獣というよりは大量破壊兵器みたいな見せ方になっています。ヒロインが主人公をかばって爆風に飲まれちゃうのは、トラウマに悩む主人公を不幸のどん底に落とし込みます。そのトラウマ克服の機会が同僚の野田から持ち込まれるのでした。

前半から中盤にかけては、とにかく主人公を追い込んでいくお話で、それが一応ラストのカタルシスにつながる展開は、面白かったのですが、山崎貴の演出は意外と平坦。登場人物のセリフの抑揚でしか、ドラマの強弱をつけられない感じが今一つ映画としての面白さにつながらなくて、そこが残念でした。セリフに重心を置きすぎる演出だと、その場でセリフを喋っていない人が演技してないように見えちゃうので、シーンとしての情感とかが伝わってこないと感じてしまったのです。セリフでは語り過ぎのようで、ドラマとしての盛り上げを欠いたというのはひどい言い方かしら。

主人公のトラウマ克服の過程はなかなかに感動的ではあるのですが、ドラマとしての広がりを感じられなかったのですよ。多分、これはセリフ重視の演出に加えて、脇役の扱いがよくなかったのかも。結局、敷島は、全て自分の中で抱え込んで、自分の中で完結しちゃってるように見えたのです。せっかくのヒロインも主人公の不幸ダメ押し要員にしかなっていませんし、機雷除去の同僚3人も主人公に何か影響を与えたようにも見えず、敷島一人が自分のせいで他人の死を招き、そのトラウマから自分一人で脱出してヒーローになってるってのが、何か物足りなくて。「ゴジラ×メカゴジラ」の釈由美子嬢も似たような境遇だったけど、周囲の励ましとか善意によって立ち直る展開だったので、この映画の場合、敷島一人だけ、ちょっと強すぎって感じで共感を呼ばなかったのかも。

ドラマの抑揚で言うなら、音楽演出も何か変でした。音楽は佐藤直紀のオリジナルと、伊福部昭の既成曲を組み合わせているのですが、オリジナルの方がシンセを使ったハンス・ジマー風のスピリチュアル寄りの音なのに、伊福部昭の勇壮な盛り上げ曲で、これが交互に流れるので、聞いてる方の精神状態の上げ下げが激しすぎるというか、映画が情緒不安定になっちゃっているのですよ。伊福部昭の音楽は、過去のゴジラ映画のモチーフを無造作に並べた感じだけど、でも明快なモチーフがあるので映像が素直に盛り上がります。それに比べると、佐藤直紀の音楽は、モチーフが前面に出てこない今風の描写音楽なので、これを一本の映画の中で使うこと自体に無理があったのかなって気がします。音楽としての統一感がないと、映画のカラーが落ち着かない感じになっちゃうのですよ。それを狙ってやっているとしたら、この映画、私とは相性が良くないのかも。

今回のゴジラは、少なくともこの映画の中では、神格化も擬人化もされていない、恐竜の無茶苦茶強い奴という扱いです。出現の理由も語られませんし、東京を目指す理由も不明(これはオリジナルの「ゴジラ」も同じですけど)。オリジナルの「ゴジラ」のようなバックボーンを感じなかったのですが、これはこれでありだと思いました。体が傷ついても、あっという言う間に修復しちゃうとか、一発で周囲を焼け野原にしちゃう光線技とか持ってるのは、怪獣以上の存在(← 超獣?)ですけど、ドラマの中心ではない、主人公を引き立てる脇役のポジションを全うしてるので、こういう扱いは新しいかもって思いました。



この先は結末に触れますのでご注意ください。



3万人の犠牲者を出して、海に消えたゴジラですが、いつまた上陸してくるかわからない状態です。米軍は軍事行動を行えないというところで、旧倭国軍の有志が集まって、民間人の手でゴジラに立ち向かおうということになります。かつて軍の技術者だった野田がゴジラを倒す作戦を提案します。それはゴジラをフロンガスで包み込むことで急激に海底1500メートルまで沈み込ませ、圧力差で葬ろうというのです。さらにそれでダメなら風船によって、急激に浮上させて、二重の圧力差攻撃で仕留めようというもの。それでゴジラを倒せるかという確信はありませんでしたが、多くの有志がその作戦に参加することになります。敷島は飛行機を要求し、それによってゴジラを深さ1500メートルの地点まで誘導すると宣言。倉庫に眠っていた震電という幻の戦闘機が引っ張り出されます。敷島は、大戸島の生き残りの橘を探し出し、彼に震電に爆弾を仕掛けることを依頼。ゴジラの口に飛び込んで爆発させようとします。ゴジラを海に沈める作戦は、上陸したゴジラを橘がうまく相模湾へ誘導し、フロンガスを破裂させてゴジラを1500メートルの海底に沈めることに成功します。しかし、ゴジラはまだ死んでおらず、今度は緊急浮上させようとしますが、ゴジラが風船を食い破って浮力が足らず、船を連ねて引き揚げるのですが、ダメージを受けたゴジラが光線を吐きかけたところへ、敷島の飛行機が突っ込み、ゴジラの頭が吹っ飛んで、本体は沈んでいきます。敷島は口に入る直前で脱出して無事でした。橘が震電を整備した時にパラシュートと脱出装置をつけていたのでした。そして、東京へ戻ると典子が生きていたという電報が届いていました。病院で再会する敷島と典子。めでたしめでたし。

軍隊でも自衛隊(当時はまだないですけど)でもない民間人でゴジラを倒そうという話になるのが、なかなかすごい。うまくいくかはわからないけど、とにかくやらないとまた犠牲者が出るという展開で、敷島はここでゴジラと心中することが贖罪になると考えるのですが、橘の計らいもあって、彼はゴジラを倒し生還するのでした。クライマックスはなかなかに盛り上がって感動的なんですが、橘が飛行機を整備しているときに操縦席を見つめるシーンがあるので、脱出装置の仕掛けが読めてしまうのはちょっと残念。また、帰ってきたら、死んだと思った典子が生きてましたという唐突な展開は、ちょっと引きました。生きててよかったんだけど、何か見せ方が安くない?って気がしちゃいまして。

この映画、2時間ちょっとあるのですが、その中でゴジラの出番はかなり控えめでした。画面にゴジラが出てくる尺が少ないだけじゃなく、ゴジラの脅威とかゴジラのバックボーンとかが語られる尺もあまりなかったのです。映画の半分以上は、敷島個人の罪の意識の葛藤なので、敷島の戦争の始末記を描いた映画と言ってもいいかもしれません。ただ、そう言っちゃうとドラマが薄めでして、生と死の間で感情が揺さぶられているのは、他の登場人物も同じはずなんだけど、そこは一切触れないのが物足りなく感じてしまうのですよ。ヒロインの典子もラストでは菩薩様のようにニコニコしてるだけで何か生身の人間感がなくて、敷島だけ人間で、後の人はバックの書割りみたいな位置づけになってたのは、何だかなあって思ってしまったのです。バランスの問題なのかもしれなくて、演出が敷島だけの肩入れしすぎたから、他の人があんまり描かれずに、その結果、ドラマとしての味わいが薄くなったって感じかなあ。後はセリフ周りかなあ、例えば、野田が「あいつの戦争はまだ終わってないんだ」って言うなら、結構泣かせるセリフになるのに、「自分の戦争はまだ終わってないんです」って当人が言うと何か浅く聞こえちゃうんだよなあ。(←これは私の好みの問題なので、そこはご容赦ください。)ゴジラを中心に据えないゴジラ映画を作った意欲はすごく感じたのですが、その代わりに中心に置いた人間ドラマの方がちょっと物足りなかったって言ったら、ファンに怒られちゃうのかなあ。
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Author:einhorn2233
Yahooブログから引っ越してきました。静岡出身の横浜市民で映画とサントラのファンです。よろしくお願いいたします。

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